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前に進むために、ただ1人で右往左往を繰り返す。

作者の事を知った方が作品は面白い①バスキア展

バスキア展に行ってきた。

とても良かった。

特に、昔雑誌や新聞の切り抜きでスクラップブックを作っていた人には是非お勧めしたい。


何故なら、バスキアは配置が最高。

 

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https://diamond.jp/articles/-/217409より

 

ここにこれを、こう置くかーー

バランスがなんとも気持ちいい。うるさいけど可愛い。ごちゃごちゃだけどおしゃれに見える。

  

会場内では激混みで、あちらこちらからバスキアって誰?という声が聞こえた。

とりあえずSNSに載せる用の写真をばしゃばしゃ撮ってさっさと歩き去ってしまう人も多い…ように感じた。

 

私は、作者が生きた時代背景や、彼自身の思想など、もっと詳しく知っている方が絶対に作品をより楽しめると思っている。

ということで、これから展覧会に行く人のためにも、バスキアについて自分が調べたことをまとめてみた。

バスキアって誰?

下の写真がバスキア。イケメンである。

 

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https://otocoto.jp/column/basquiat/より

生い立ち

バスキア、本名 ジャン=ミシェル・バスキアは、1960年12月22日、ニューヨーク市ブルックリンに暮らすハイチ系移民の父親とプエルトリコ系移民の母親の間に生まれた。

街中でのスプレーペイティングを始めたのは17歳の頃。その後高校を中退したバスキアは、Tシャツやポストカードを売りながら生計を立てる中で徐々に評価を受け、ニューヨークで個展を開くまでになる。

1983年にはアンディ・ウォーホルと知り合い、作品を共同制作するようになる。しかし、バスキアは次第に薬物依存症に陥り、1988年にヘロインのオーバードースで、27歳で亡くなった。(ほぼWikipedia

 

1960〜1980年代のアメリ

1960年アメリカでは、大きな社会変動が起こっていた。それまで、アメリカは主として古い家柄を持つ白人男性によって支配されていたが、1960年代に入ると、それまで差別的な地位にあったアフリカ系米国人、アメリカ先住民、女性、ラテン系米国人等が自らの権利を主張し運動を起こし始めたのである。彼らを支持したのは、主に全米の大学で学ぶ若者たち。第2次世界大戦世代の親から生まれた子供の多くは、「対抗文化」と急進的な政治思想を支持し、文化的・民族的多元主義を特徴とする新しい米国を推進していた。 

 

公民権運動

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米国の公民権運動の足跡をたどる | 在日米国大使館・領事館 より

 

アフリカ系アメリカ人による人種差別の解消を求めた運動である。バスキアが生まれた1960年は、まだ「ジム・クロウ法」という黒人差別を合法とする悪法が横行していた。この法律により、白人と黒人その他有色人種は、公共施設や商業施設など至る所で分離されていた。「I have a dream」で有名なキング牧師らの奮闘の末、1964年に公民権法が制定され、法の上では人種差別は撤廃された。

しかし、人種差別感情が強い南部を中心に、白人至上主義団体による黒人への暴行や、黒人が営む店への営業妨害などは継続的に行われていた。

一方で黒人グループ側も、非暴力主義を貫いたキング牧師亡き後、暴力などの非合法的手段を用いることを否定しない過激な運動へと変化していった。

つまりバスキアは、権利闘争で公民権を勝ち取ってもなお残る人種差別への悲観を身に染みて味わっていたと思われる。

ベトナム戦争

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Vietnam War - The Times They Are A-Changin'より ベトナム戦争反対運動を行う学生たち

 

もう一つ、バスキアの生きた時代の象徴的出来事として、ベトナム戦争がある。詳しく書くとあまりに膨大になってしまうため、ざくざくっと短縮してお送りする。

まず、時代は冷戦真っ只中。第二次世界大戦後、世界のリーダーの座を争ってアメリカとロシアが始めた喧嘩である。

二国間での物理的な攻撃が無かったために、「冷たい戦争」と呼ばれた訳だが、実際には、アメリカとロシアの代理戦争が各地で勃発していた。ベトナム戦争もその一つだ。

アメリカは、この戦争で5万を超える戦死者を出し、負傷者も合わせるとおよそ30万人を超える人的損失を出した。

一方で、この時テレビ放送の普及が始まっており、一般の人々は始めて「戦争」を画面を通して知り、その悲惨さを目のあたりにしていた。これによってアメリカ国内では反戦運動が盛り上がり、若者たちの間ではヒッピーやフラワーピープルなど対抗文化(カウンターカルチャー)が流行となった。

 

対抗文化とは

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21th century 's hippie | Epokal エポカルより 対抗文化の一つ、ヒッピーたち

 

対抗文化は、1960年代後半から1970年代初めにかけて、中流階級の安定した生活パターンを否定する若者たちの間で広がった。長髪と髭が流行り、背広とネクタイがジーンズとTシャツに変わった。違法薬物の使用が増え、ロックンロールが爆発的に体流行し、様々な音楽に変形していった。

バスキアの作品がよく形容されるジャズも、1970年代から、ジャズにロックやラテン音楽電子音楽などを融合させたフュージョンというジャンルが登場する。

 

つまり、まとめると、バスキアの生きた1960~1980年代は、人種差別や戦争などがまかり通る理不尽な社会に対して、大衆が異議を唱え、自由や権利を主張する戦いの時代と言える。

バスキアの人柄
しかし、そのような時代の中で、バスキア自身は「黒人アーティスト」としての評価を嫌っていたという。

bijutsutecho.com

 
 以下、上記URLからの引用。
 

・・・彼らと話をしていくと、共通して語られることがいくつかあった。まずバスキアは自分を「黒人アーティスト」と呼ばれることを極端に嫌っていたということ、そしてアーティストとして有名になるというオブセッション(強迫観念)が人並み以上に強かったということだ。当時のニューヨークのアート界はいまよりもさらに白人男性で固められた世界で、彼の声に耳を傾けてくれる理解者は白人ばかりで彼自身そのことに疑問を持っていなく、加えて周囲も彼が黒人であることを意識していなかったというのだ。 しかしこれは、彼が黒い肌のアーティストであったがゆえに、黒人の音楽や文化や歴史、黒人選手が活躍するボクシングや野球をテーマにした作品をつくることができるというパラドックス(逆説)的な特権も持っていて、・・・ 

 

 

確かに、バスキアの作品を見ると、人種に関する社会問題に対する問題提起や社会風刺が数多くみられる。しかし、バスキア自身は、自分の肌の色がある種肩書として見られることを嫌がったようだ。自分自身を評価してほしい。しかし自分の作品は必ず黒人としての基盤に基づいてしまう…。相当大きな葛藤があったのだと思う。

それでもバスキアは描きに描いた。悩み、苦しみながら描かれた作品たちは、どんなにポップな色使いをされていても、人の心を揺さぶるものがある。

 

まとめ

長くなってしまったが、説明としてはまだまだ至らないと思う。バスキアや当時のアメリカ社会により興味を持った方は、ぜひ下の映画をお勧めしたい。

eiga.com

 

私も、この映画を観てから展覧会に行った。実際、バスキアの知識ゼロで観たために(絵描きということも知らなかった)あまり内容は覚えていないが、当時の映像や音楽などが印象深く、バスキアの絵を見た時にそれらが頭の中で強く結びついた。

 

あの映像、あの音楽の中で描かれたのがこれか、と。面白さが10倍くらい上がるかと思う。

 

展覧会の前に作者を知る、ぜひおすすめです。

バスキアの展覧会は11月17日(日)まで。あと1週間、お早めに!